豊富なヤマチャを開発利用し紅茶を生産して輸出を奨励しようと,1876(明治9)年に政府が人吉町に伝習所を設けていますが,その所在地が推測されましたので報告します。
『明治前期農業事蹟書』には、「第一四大区四小区田町の得田丈吉家作を借り入れて」とあり,住所が判明しています。
明治末期~大正期の人吉市田町の地図には得田丈吉の家は,徳田常次郎の家と推定されます。その根拠として田町にはトクダと名乗るのは徳田常次郎だけであり,1793(寛政5)年の町奉行日記である『新宮庄大夫行雄覚書』によると徳田は江戸時代には「得田」と名乗っていました。同日記によると「田町乙名徳田丈吉名字文字得田と改申度旨願出申上候処,其通申渡候様被仰渡候事」とあります。同日記に同じ字を使わず,他の文字に変えるよう指導がなされていますので,相良藩32代藩主相良頼徳と同じ「徳」の字を使用することが憚れたと考えられます。
徳田常次郎のところに『寿福』という文字が地図に確認できますので,現在の寿福酒造の関係者が紅茶伝習所について知るものと推察されます。寿福酒造の寿福絹子氏(昭和23年生まれ)によりますと,徳田家は現在の寿福酒造の数軒右隣りに当たります。
これらのことから人吉紅茶伝習所の所在地は、現在の人吉市田町にある寿福酒造の付近であることがわかりました。
(文責:坂本孝義氏)